「 靖国と領海侵犯は別問題だ 」
『週刊新潮』 2004年12月2日号
日本ルネッサンス 第143回
チリでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)で小泉純一郎首相が記者団に繰り返し述べたのは、靖国神社参拝について「何も言わないことにした」ということだった。
11月21日に、1年1ヶ月ぶりに実現した中国の胡錦濤国家主席との会談で、靖国神社への小泉首相の参拝が「中日間の障害になっている」「歴史を避けては通れない」「適切に対処してほしい」と畳み込まれ、「来年は反ファシスト勝利60周年の敏感な年だ」とまで言われたことに関連して、来年の参拝も含めて、わが国の首相は靖国神社参拝についてはもう一切コメントしないと言ったのだ。
胡主席の発言は政治的戦略に基づいた内政干渉で、このうえなく差しでがましい。首相は「靖国神社について(胡主席から)言われたことは誠意をもって受け入れる。心ならずも亡くなった先人に哀悼の誠をささげ、不戦の誓いをするということで参拝している」「歴史を大切にすることは重要だ」などと応じた。
首相が中国側の主張に耳を傾ける一方で、靖国参拝は宗教と日本人の心の問題であり、それについて外国の元首が「反対」と言うのは国際社会の常識からみてもおかしいという主張を日本国の首相として展開した様子は窺えない。
他方、首相は中国の原子力潜水艦の領海侵犯事件について「あまり深く追及」しなかった(『毎日』)そうだ。中国の報道官は記者会見で「この問題はすでに決着がついている」と述べたが、領海侵犯の件も、中国が強硬におし進める海洋資源開発の件も、終わったどころかこれからまさに過熱していく問題だ。
国際法に違反して大胆不敵に日本の海洋権益を侵し、領海を侵犯することを深く追及せず、靖国神社に参拝すると明言もしない小泉首相を見つめていると、中国に妥協したのではないかといういやな予感がする。
首相は、靖国と領海侵犯及び海洋権益の不法な略奪という、元々全く性質の異なる問題を相殺させられようとしているのではないか。無関係の事柄を結びつけ、攻めに弱い日本側を言葉烈しく責めて、攻め込むのが中国の戦術だ。その術中に小泉外交は嵌ったのではないか。
「発令は公表しない」
首相の一連の決断の背後には田中均外務審議官らの姿が見え隠れする。小泉外交の中国政策は田中審議官に代表或いは象徴されるチャイナスクールに影響されていると思わざるを得ず、日本の国益を置き去りにしたものである。彼らは日中関係のスムーズな運営のための障害を取り除こうとするが、〝障害〟とは中国の視点で見た障害であり、日本の視点でみる障害は無視しがちである。
その具体例を中国原潜の領海侵犯のケースで見てみよう。
改めてふりかえれば、中国の原潜は11月10日午前5時38分に日本の領海に侵入、情報は即防衛庁長官らに伝えられた。首相に同情報が報告されたのは午前8時だったと後に発表された。首相が海上警備行動を発令し、海上自衛隊が海上警備行動を開始したのは8時45分だ。
小泉首相に情報が届けられてから決断までに45分かかったわけだが、海上警備行動に関する法律、行政上の必要事項の説明を考えれば、早い決断だったとも言えるだろう。だが、国民が海自による海上警備行動について知るのはNHKのテロップによる速報によってだった。11時すぎに伝えられた同情報が瞬く間に各社の後追いで広く報じられたのは周知のとおりだ。
問題は、〝官邸〟が当初、この情報を隠そうとしたことだ。NHKが報じる前、午前9時半に官邸は「海上警備行動の発令は公表しないから、情報の取り扱いに注意せよ」との指示を関係者らに出した。
〝官邸〟情報筋が語った。
「官邸の指示は異常です。第一、海上警備行動発令にはかなりの数の人間が関わります。それを秘密として守り通せるはずがありません。公表しないで済むと判断したとしたら、情報の取り扱いについて全く素人だと言われても仕方ありません。もう一点は、海上警備行動は軍に対する発令です。自衛隊は建前上は軍ではなくとも実質は軍です。軍を動かすオペレーションを国民に知らせないという類のことこそ、絶対にしてはならないことなのです」
国家として主張せよ
なぜ隠そうとするのか。中国との更なる摩擦を恐れたとしか考えられない。そこには、日本と中国は対等であるという考えや、日本は独立国であり、領土領海を守る権利も責務もあるのだという考えがすっぽり脱落しているのだ。だが、〝官邸〟の目論見は報道によって崩され、国民は戦後2回目の海上警備行動が発令されたことを知った。が、その内容がどれほどお粗末なものだったかについては、十分に知らされていない。
まず、空からの追尾は日本の防空識別圏までだとして、日本政府は追いかける範囲について自らに縛りをかけた。防空識別圏は領土の外側4400キロから500キロの範囲の空だ。中国が領海を侵犯したことは、鍵をこじ開けて家の中に入ってくるに等しい行為だが、それを追うのになぜ縛りをかけるのか。国際法に従って、5500トンの原潜が中国の青島軍港に入っていくのを見届ければよいのだ。日本政府はまた、潜入したのが中国の原潜だと知っていながら、その事実を公表するのに極めて慎重だった。中国政府は日本政府のためらいを見てとって、侵犯から6日後、ようやく自国の原潜だと認めた。
領海侵犯も領土侵犯さえも中国に許してしまいそうな日本政府の姿勢の延長線上にチリの会談がある。そのチリ首脳会談実現のために小泉首相はさまざまな工夫をしたらしい。その関連か、橋本龍太郎元首相が北京を訪れた。だが、橋本氏が日本のために何が出来るというのか。総理まで務めた人物でありながら中国の女性官僚との〝親密な仲〟を取り沙汰され、中国政府に首根っこをおさえられていると言われる人物が立ち働けば、中国の小間使いにはなれても日本の国益に資することは難しい。こうしたチャイナスクールの人々だからこそ靖国vs領海侵犯と海洋資源開発の相殺という戦略に易々と乗るのであろう。
私たちは98年夏、中国政府高官に配布された中国政府の内部文書を思い出すべきだ。歴史問題を対日切り札として日本にその都度、厳正に対処することによって、日本をコントロールする方針が描かれている。小泉首相が来年の参拝をとりやめれば、中国は自らの戦略の正しさを納得し、してやったりと高笑いをするに違いない。健全な日中関係を築くには日本側が主張すべきことを主張しなければならない。領海侵犯を棚上げし、靖国参拝を中止することは国家であることを止めるに等しい行為なのだ。